2009年12月11日金曜日

「言葉」の重みを考える

アメリカオバマ大統領がノーベル平和賞を受賞し、昨日、ノルウェーの首都オスロで授賞式があった。核軍縮への取り組みや地球温暖化問題で国際的指導力を発揮したとしての受賞だ。

オバマ大統領は、「正義として持続する平和」というプラハでの演説で訴えている「非暴力の理想」「『核なき世界』を目指す理念」などで評価されている。

しかし、就任間もなく大きな成果が出ていない中での受賞として批判もあるのも事実。演説や姿勢、期待値も含めての受賞であろう。

ノーベル賞公式サイト

一方、国内では鳩山首相が資金管理団体が巨額の資金提供を受けている問題がメディアを賑わしている。

この話題では、鳩山首相が野党時代から同様の事件が発生した際に、「政治と金」について厳しい指摘をしてきた「過去の言葉」が、今になっては、自分に対して向けられることになっている。


この2つの話題で注目したいのが「言葉の重み」だ。


「言葉」とは、「何か」を「誰か」に伝えるツールである。
複数の人間が生活をするうえで、情報の伝達、意思や喜怒哀楽の伝達をするための手段である。

ここでより深く考えてしまうと、大学の研究分野並みの話題になってしまうので、この辺でとどめておくが、「言葉」というものは、使う立場、使うシチュエーションによって、その「重み」が変わってくるものだ。

ビジネスにおいても、商談、方針説明、決議といった場面では、そこでの「言葉」というものの重みが大きくなってくる。

「あの時、ああ言った」「いや、それはそういう意味で言ったのではない」といったことが、多々ある。特に、利害関係に及ぶ場合は、その「言葉」自身が結果を大きく左右しかねないこともあり、論争になる場合もある。


日本語は、英語等に比べて、主語を省略することが多く、非常に曖昧に表現してしまいやすい言語だ。したがって、誤解も起きやすい。また、「読点」「句読点」の位置で、意味合いが変わってくる表現もある。独特の表現で分かりにくいと非難される「国会答弁」や「霞が関文学」と言われる「お役所文書」も、そうした日本語の特徴が表れているのかもしれない。

「重要な場面での言葉」を使用する際には、情報を正しく伝達するために、「日本語の短所」を意識することが重要だ。