2010年2月20日土曜日

「情報」という言葉を考える

普段、何気なく使っている言葉、「情報」。
毎日、溢れんばかりの「情報」により、我々の生活は成り立っている。

この言葉、改めて、辞書で調べてみた。


【情報】
(1)事物・出来事などの内容・様子。また、その知らせ。 
(2)〔information〕ある特定の目的について、適切な判断を下したり、行動の意志決定をするために役立つ資料や知識。
(3)機械系や生体系に与えられる指令や信号。例えば、遺伝情報など。
(4)物質・エネルギーとともに、現代社会を構成する要素の一。

大辞林 第二版 (三省堂)

まぁ、確かに、という説明だ。

そもそも「情報」という言葉。「情(なさ)け」と「報(むく)いる」という文字で構成されている。
調べると、この言葉の起源は、どうやら明治時代に出来た言葉のようだ。
明治20年、森鴎外が「戦争論」という書籍の翻訳をする際に、造語として作られたとか。思想的には、福沢諭吉の思想も影響があったとか。
その後、軍事用語として使用され、一般的な言葉として認知され始めたのは大正から昭和になってから。

現代では、この「情報」という言葉は学術的な用語として4つに意味合いに区分される。

1.知識や知性の源として集められる事象=インテリジェンス
2.発信される事象=インフォメーション
3.蓄積される事象=データ
4.事象を伝えるインフラ、手段、基盤、空間などの総称

メディアなどで表現されている「情報社会」「情報化」という言葉としては「4」の意味。

しかし、我々がビジネスで扱う場合に考えなければならないのが、「1」~「3」だ。

特に、通信技術が発展し「氾濫している」と言われているものは、「3」であったり「2」であったりすることが多い。

蓄積された事象であるデータを、如何に知恵や知識と言うインテリジェンスに変換できる仕組みがあるかないかが、今の企業組織に求められるスキルであるのだろう。


2010年2月19日金曜日

ナショナルフラッグの上場、最終日。。

明日20日付で、とある会社が上場廃止になる。その企業は日本航空。
今日の最後の売買があったが、取引の終値は1円。

上場会社となって48年目の出来事。

私が社会人となったバブル崩壊後の90年代半ば頃から、証券会社や金融機関など大手企業が倒産することが多くなり、その後も各業界での統廃合などの業界再編がうごめく中、名門企業がこのような状態になることも珍しくない時代になってしまった。


思い返せば、中学校の時に、キャンペーンで当選し家族でハワイ旅行に行った時に使用していたエアラインが日本航空。これが、一番はっきり覚えている私にとっての古い記憶。

当時の私は、客室乗務員が、日付変更線を越えたころに、アロハやムームーに着替え、リゾート気分を演出しながら、非常に丁寧なおもてなしをしていたことを、今でも覚えている。

その頃のテレビでは、深田祐介原作、堀ちえみ、風間杜夫出演の「スチュワーデス物語」(TBS系)が同時期に放映されていたことも覚えている。確か、日本航空が全面協力していた。

と同時に、時を前後して全日空が「ANA」ブランドで、本格的に国際線へ進出。
当時のCMも、未だに覚えている。

そんな時代から四半世紀が経過。

確かに、その間に、両エアラインのサービスの質の格差も無くなって、逆に逆転をしてしまった感も否めない。

しかし、様々な海外のエアラインと比較すると、日本のエアラインのサービスは、今でも非常にクオリティが高いと思っている。特に、アメリカのエアライン等と比較すると、格段に上だ。


そんな中での経営問題。

今、日本航空の人材を獲得したいという動きが、水面下で始っているらしい。その獲得したがっている企業は、外資系アジア系の企業なのだという。

日本航空の「おもてなし」「接遇」のノウハウを、是非自社のノウハウに活かしたいということなのだという。

日本の国内にいると、この「おもてなし」「接遇」というものに対する「価値」というものを、あまり意識しない人が多いと感じるのは私だけだろうか。

この日本の「おもてなし」文化は、世界に誇れる文化の一つだと私は思う。
海外に出ると、いつも、その有難さを痛感することが多い。


せっかくの、我々が誇れる文化資産を、今後も大切にしたいものだ。

2010年2月18日木曜日

情報社会インフラの将来像とは。。。

今日のBSフジプライムニュースで面白い特集をしていた。
テーマは、「情報通信技術が支える少子高齢化社会の将来像」というもの。
社会インフラとしての情報通信技術をテーマに報道していた。

ここでのキーワードは、「ユビキタスコンピューティング」
ユビキタス(Ubiquitous)とは、ラテン語が語源で、「神様はどこにでもいらっしゃる」という語源があるらしい。意味としては、「偏在」「どこにでもある」という概念で使用されている。

今日の番組では、ユビキタスの事例をいくつか紹介していた。具体的には、ICタグを利用した事例。

スーパー等では、食品のトレーサビリティ(追跡調査)を実施するために、ICタグを野菜に付けて栽培情報、農薬情報等を専用の端末で取得できる事例などを紹介。

更に、最近では、東京銀座で約1万個のICタグを埋め込み、実験していることなども紹介。外国人への観光情報の提供など、実験しているらしい。

東京ユビキタス計画

ICタグそのものは、特に目新しくは感じられなかったが、社会インフラとして、以前よりも具体的な取り組みが始められているのだなと感じた。

一方、社会インフラとしては、日本よりも一歩進んでいる海外事例も紹介されていた。

例えば、フィンランド。
フィンランドでは、電子カードを国が主導となって一本化し、様々なサービスに利用できるのだとか。1人1枚のカードが発行され、新生児が生まれて2時間後には個人別番号が付与される仕組みが既に構築されているらしい。


ところで、こうして益々便利になる情報技術であるが、最後に課題になるのは、「人間」そのものなのではないだろうか。

例えば、こうした「情報を伝えるツール」は、様々な形でこれからも発展を遂げるだろう。しかし、情報そのものを取り扱うのは、最後は「人間」だ。

情報そのものの「真贋」。悪意のある人間が介在する限り、「偽情報」というものは存在してしまう。
また、、情報の「複製」「漏洩」といった、本来意図したものでない目的で情報を利用するなどの「倫理面」の問題。

気になることは、まだまだ沢山ある。

番組の中でも、「自分さえ良ければよい」という視点で情報を扱う限り、問題はあるとの指摘していた。

更に、インフラそのもの対する考え方も変革が必要だと。つまり、インフラに対しての「保証」を求めるのではなく、「ベストエフォート」つまり、「完全保証はできないが、最善をつくす」ということに対する理解が必要とも指摘していた。コンピューターに完全を求めるべきではないということ。


「自分さえ良ければ」という考え方も、「ベストエフォート」への理解も、我々自身が「良心」持ち、「寛容な心」を持つことが重要であることを表しているのではないだろうか。

最新の技術の取り扱いも、突き詰めれば、人間自身の「心(ハート)」次第によって、良くも悪くもなってしまうのだろう。

2010年2月17日水曜日

「桜」予報も、官から民へ。。

「官」から「民」へ。様々なものが民営化の流れとなってきたが、今年から民間が行うことになったことが一つ。それは、「桜の開花予想」。

今までは、気象庁が発表してきたのだが、今年からはもう行われない。民間企業により発表されるのみだ。

ところで、天気予報をビジネスとしている大手企業は、3つある。


今年の桜の開花予想について、それぞれ微妙に異なる予想をしているのだ。

気象情報ビジネスは、「情報」そのものが商品だ。であるからこそ、「情報」そのものの「品質」が問われてくる。

今日のNHKのニュースでは、気象庁の開花予想の予想の仕方と、日本気象協会の予想の仕方の違いを説明していた。詳細な部分は、企業秘密としているが、やはり手法は異なっていた。

気象情報は、情報の種類のなかでも、仮説情報の組み合わせの集大成によって成り立っている。

仮説とは、前提条件、前例、先行情報、周辺情報などを総合して組み立てられる。
その組立の仕方によって、仮説自身も大きく変わってくるのだ。

私自身、流通畑で仕事をしている際に、毎日のように「仮説」「実施」「検証」を繰り返し行っていた。その積み重ねにより、「仮説」自身の精度も高まってくるのだ。

企業の情報を、「資産」として価値あるものにするためには、この「仮説」「実施」「検証」を繰り返して取り組むことが大切だ。

さて、今年の開花予想。
どこの会社の予測が、結果として近いものになるのか、興味津々だ。

2010年2月16日火曜日

日本の成長戦略には、「情熱」が必要!!

本日のBSフジプライムニュース、久しぶりにゆっくりと視聴できた。
今日のゲストは、伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏。

テーマは、「日本の成長戦略 政府の経済対策を斬る!」

丹羽氏の日本の成長戦略としての提言は、「PASSION」。

「PASSION」、つまり「情熱」。
「やろうぜ!」という熱意が、企業の経営層は特に持つべきだと提言していた。更に、「ただ単に、やろうぜ!」というのではなく、はっきりとしたビジョン、どうしたいのか、ということをはっきりと明示することも忘れずにとも付け加えていた。。


確かに、社会を見渡しても、「熱い思いを胸に頑張るぞ」という人が少なくなってしまっているかもしれない。

初めからどこか冷めた目で見ていたり、途中で投げ出してしまったり、逃げ出してしまったり、、と。

実際に、私自身、こうしたことに遭遇させられて困ったこともある。


大変な時代であるのは、誰にとっても同じ。
だからこそ、新しいことを考えようと思いを馳せたり、何かより良く改善してやろうと思うことにより、新たな創造に繋がるものだと思う。

常に、ポジティヴに前向きに。

丹羽会長が提言された、「PASSON」。
今日のバンクーバーオリンピックでは、スピードスケートで「銀」と「銅」を獲得するなど勢いづいている。このままの熱気で、皆で日本を元気にしたいものだ。

2010年2月15日月曜日

「教わる」ことと「学ぶ」ことの違い。。

今日も、続けてオリンピックの話題。。

今日の仕事の最後の打ち合わせでも、話題となったことの一つ。


と言っても、スポーツそのものの話題ではない。

開会式前から、メディアで報道されているスノーボード男子ハーフパイプ競技の代表、国母和宏選手の話題。

日本人選手ユニホームを着崩していたことにより、「好ましくない」「不適切」とのことで、選手村入村式、開会式に出られなかった。

更に、その後のマスコミに対する記者会見の態度で、火に油を注ぐ結果となった。

こうした動きで、彼の通う大学、そして文部科学大臣までがコメントするという、世間を騒がすニュースになった。

さて、ここで思い出すのが、朝青龍のお騒がせ問題。

二つの話題で共通のキーワードになっているのが、「品格」という言葉がマスコミで使われている。
しかし、私としては「品格」という言葉を、不用意に使うべきではないと思ったりする。マスコミ自身、我々自身も「品格」があるのかというと、疑問を持たざるを得ないからだ。

あえて、今回のことを、キーワードとして捉えるならば、「礼節」と「TPO」では無いだろうか。

この「礼節」と「TPO」に共通することは、物事を客観的に見ることができるか。つまり、自分自身の振る舞いを、客観的に見ることが出来るか否かということかもしれない。

どうも、この「客観的に見る」ということが、現代の日本に欠け始めているのではないかと感じる。

「客観的に見る」ということは、色々な立場に立って物事を見るということである。
会話をするときには、相手の立場になってみたり、ビジネスの際にはお客様の立場になって、というごく当たり前のことだ。

海外旅行に行けば、その土地の人の目線になって考えてみるということも大事だ。宗教観の違い、治安の違い、政治思想の違い、様々な視点で、日本の常識が、世界の非常識であったりすることもあるのだ。

今回の騒動に対して、「教えてこなかった周囲が悪い」といった論調も目立つが、そもそも、
こうしたことは、「教える」ことではなく、私は自分自身が経験し、体感し、「学ぶべきもの」だと思う。

ある教育学者が指摘していたが、日本の教育論は「教える」ということに主眼を置いており、「学ぶ」ということが、非常に軽んじられていると指摘していた。

まさに、そう感じる。

ビジネスにおいて、教科書を読んだだけは社会では通用しないことが多々ある。
自身が現場で経験し、「学び」を通して得られた「知恵」「知識」こそ、価値ある資産になるのである。

2010年2月14日日曜日

日本と「縁」がある、オリンピックの意外なエピソード

バンクーバーオリンピックが開催されて、2日目。
さて、今日も昨日に引き続きオリンピックネタで。


セレモニー好きの私であるが、昨日は、再放送含めて、毎度のごとく今回も開会式に見入ってしまった。その中で、いつもジーンと来るシーンがある。それは、オリンピック旗の掲揚シーン。

この開会式での掲揚、そして閉会式での降納の際に、必ずオリンピック賛歌(Olympic Anthem)が演奏される。厳かで、スポーツに対する畏怖の念さえ感じさせられる。

このオリンピック賛歌は、毎回開催国の言葉で歌われるか、ギリシャ語で歌われるのが普通だ。

ところで、このオリンピック賛歌は日本と深い関係があるのをご存じだろうか。

実は、このオリンピック賛歌は、非常に面白いエピソードがあるのだ。


1896年の第1回アテネオリンピックの開会式で演奏されたものの、その後、楽譜が紛失したため、オリンピックでは演奏されていなかったのだ。
その後、1958年にIOC総会が東京で行われる際に、その楽譜が見かり、ホスト国の日本に届けられた。しかし、その見つかった楽譜はピアノ演奏用の楽譜であったため、日本オリンピック委員会がNHK経由で、かの有名な作曲家の古関裕而氏に依頼し、オーケストラ用に編曲されたとのこと。その後、IOC総会の場で、NHK交響楽団がオリンピック賛歌として披露。

当時のIOCは、日本の善意とこの曲に対して感動されたらしく、その後、1964年の東京大会以降、公式の曲として演奏されるようになったというエピソードがあるのだ。


さて、日本は、伝統と文化のある国。こうした、国の背景が、当時のエピソードを作り上げたのかもしれない。

意外なところで、意外なことがあるのだなぁと、このエピソードを知った時に思ったのだった。

伝統として培われた生活の中の知恵から、技術や技、文化・芸術などなど。。

技術発展や文化変遷の中で、大切にすべきものは、今後も大切に伝えていきたいとつくづく思う今日この頃だ。