2009年11月27日金曜日

インディージョーンズ博士のモデル

私の好きな映画である「インディージョーンズ」シリーズの主人公、ハリソン・フォード扮する考古学者であり冒険家であるインディアナ・ジョーンズ。

インディージョーンズオフィシャルサイト(英語)

このインディアナ・ジョーンズにモデルがいたことが、つい最近知った。

その名は、ラングドン・ウォーナー氏(Langdon Warner、1881年~1955年)。アメリカの美術史家である。


実は、このウォーナー氏は東洋美術を主に研究され、戦後GHQの古美術管理の顧問として来日している。

このウォーナー氏は、太平洋戦争時に日本で多くの空爆があった中、歴史的遺産等を数多く抱える日本のなかで、空爆すべきではない地名のリスト「ウォーナーリスト」を作成したということで、京都や奈良の歴史的建造物を守った人物として知られている。一方では、リストそのものが、そもそもそうした目的のために作成したのではないという説もあるのも事実。

しかし、ウォーナー氏自身が、真の日本美術の理解者であり、日本の文化財を世界的なレベルに広めた人物であることは、間違いない。日本美術の「目利き」であるのだ。


ところで、「戦国武将ブーム」「歴女」「アシュラー」といった歴史文化物が、昨今流行している。
最近では、「甲冑(かっちゅう)パンツ」なるものまで販売されているのには驚いた。

ログイン株式会社 甲冑パンツ


これらのブームが、単なる「見た目」から、文化的「内面」の部分まで、掘り下げて目を向けられるようになっているようだ。

柔道、弓道、武道、剣道、書道、茶道、華道などといった日本独特の価値観、哲学。

こうしたものの中にも、現代の日本において改めて見つめなおし、世界に誇って広められるものがたくさんあるのではないかと思ったりする。

もしかしたら、ラングドン・ウォーナー氏も、そうした東洋的・日本的思想にも惹かれたのかもしれない。。。

2009年11月26日木曜日

今、子供の「言語力」が低下している!?

言語力とは、自分で考えたことを文章やことばで表現する力とのこと。

この言語力低下が起きているのだと、昨日のNHKの番組で取り上げられていた。

学力低下もさることながら、小中高生の文章やことばで表現する力が衰えているらしい。文部科学省も、これらを問題視し、教育活動を通じて言語力を育成することになっているようだ。


文部科学省 言語力育成のための教育内容の改善について(これまでの主な意見の例)


最近では、この言語力を検定する仕組みまであるそうだ。

言語力検定


さて、この言語力低下の問題。その原因は、様々な視点で指摘されているとのことだ。

まず、親子の会話の問題。
子供の時に、親からの問いかけ等による、筋道を立てて話させる工夫が減ってきているのではないかというもの。そもそも、会話自体が減少している。家族揃って食事を取ることも減ってきているという統計データからも、そうしたことが伺える。

他の視点としては、携帯メールに起因する問題。
短い文章で、更に話し言葉。論理的に順序立てて文章を書くという習慣がなく、こうしたショートメッセージによる文章に慣れてしまい、論理的に考えられなくなっているという指摘。

このような原因を紹介していた。

こうした現状で、小学校でのカリキュラムで論理的な思考を身につける授業を実施している事例を紹介していたが、その中で、「マインドマップ」手法を取り入れた、頭の中の情報整理の仕方を指導している風景が映し出されていて、少し驚いた。


この言語力、学校教育だけではなく、スポーツの世界でも意識されているのだという。

日本サッカー協会は、「試合で勝てないのは言語力である」として、選手同士が論理的に思考し、意思伝達をしっかりとさせるためにも、言語力向上に努めているらしい。


これらは、何も子供たちだけの話ではなく、ビジネスでも大いに影響することだ。

日々の業務における報告・連絡・相談、所謂「報連相」にはじまり、会議や討論、プレゼンテーションなど、様々な場面において、私たちは「言葉で伝える」ということにぶちあたる。

私は、我々の親の世代に比べて、非常にコミュニケーションが希薄になって、さらにITがそれを助長していると危惧している。


そもそも、「日本語」という言葉は、主語を省略したりして曖昧に表現してしまう特徴があるほか、オブラートに包んだ表現や微妙な言い回し、文脈等から読み取ることを美徳とした、世界的にも独特の文化である日本に、西洋的な発想のITの利用の仕方を、そのまま導入してしまった結果起きている現象なのかもしれない。さらに、それらに言語力低下が追い打ちをかけている。


これを打開するために、子供の教育はもちろんだが、大人社会では、そもそもITでは解決はできず、本人自身が意識をして改善しなければならないと私は思っている。

自分自身できちんと5W1H的に考え、それを順序立て、「相手の立場に立って」「相手がわかるように」伝えるとうことを、日々意識しなければならないのだ。

私は、「相手の立場に立って」「相手がわかるように」が、一つの重要なポイントになるのだと思っている。

2009年11月25日水曜日

「資生堂の歴代CM」DVD、本日発売!!

本日、大手化粧品メーカー資生堂の歴代CMを集めたDVDが、エイベックスから発売された。
数日前から、テレビ等で話題になっていた。





DVDの内容は、1961年から1979年にオンエアされたもの。1978年から1999年バージョンは、12月16日リリースの予定だとか。

発売前から各種メディアで取り上げられ、amazonのチャートでも上位を獲得している。

ところで、こうした、過去のCMと比較して最近のCMに思うことは、頭の中に残らないものが非常に多い。

70年代80年代に比べて、CMそのものの長さ(尺)が短くなっており、伝えられる情報量に制限が出てきていることもあるかもしれないが、総じて、奇をてらいすぎて、何を伝えたかったのか、そもそも何のCMだったのか分からないものが非常に多く感じられる。

最近は5秒CMもあり、そもそも15秒枠に、「5秒CM」「放送局番組宣伝」「5秒CM」となんともせわしないものも放映されている。

広告効果の減少が言われている昨今、テレビCMは過渡期に差し掛かっているのだろう。しかし、インターネット広告が台頭してきている中でも、やはり、テレビCMの持つ強みというものは、相変わらず存在していると私は思っている。

その強みとは、「一度に多くの人に、知らせる機会を潜在的に持っている」ということ。
これは、「マス(=大衆)」という視点では、他のメディアより訴求力は群を抜いているはずだ。

しかし、広告効果の減少しているのも事実。これは、情報の受け手が、情報そのものを受け取る手段が従来より増えたこと、更に、「テレビよりも魅力のある情報収集ツール」というものが出現したことによるものだ。


テレビのCMの効果を、過去のように少しでも上げるのであれば、まず、「テレビというメディアそのものが、魅力ある情報収集ツール」にならなければならない。これは、テレビ局の番組作りの問題だ。

そして、その合間に流れるCMも、CG合成処理やタレントに依存するのではなく、しっかりしたコンセプト、脚本とメッセージ性を重視すべきなのだろう。また、今のCMの枠の考え方も本当に良いのか等も考える時期なのかもしれない。

最近は、そうしたこともあるのか、テレビ局側がCM作りに参加したり、番組内容に連動したCMや、CG合成処理といったものを一切行わず、数年前のコンセプトをもう一度リバイバルで利用しているCMも放映されている。


しかし、残念ながら番組作りそのものは、新しい魅力を創出するために、何か取り組んでいるようには思えない。


以前のようなCM効果は期待できないかもしれないが、少なくとも「テレビだからこそ出来る広告」というものの出現が、非常に期待されるところだ。

今回の資生堂だけでなく、過去の様々なCMを見るたびに、少年時代、学生時代の過去の思い出とクロスオーバーしたりする。そうした「心に残る」CMの再出現を期待したいところだ。




2009年11月24日火曜日

「買う」という行為における目利きとは。。

最近、ちょっと気になっているのが、「商品を買う」という行為そのものについて。


世の中なんでも便利になり、財布の中身は寂しいと言いつつも、モノは豊かな国の日本。

様々なサービスのレベルも、世界的にも恐らく最高水準のレベルだろう。

そうした環境に馴染んでしまった影響か、自分たちが買い物をする際の「商品を見極める力」そのものが、衰え始めているのではないかととも感じることがある。


以前は、野菜や果物を一つを買うにしても、根っこの部分を見たり、色合いを見たりして、「目利き」していた。食べられるか食べられないかを見極めるには、臭いをかいだり、触ってみて試してみたりする。しかし、今では、賞味期限や内容物表示などで判断し、その内容に関して、特段知識を付けず、「上っ面」だけで評価をしているのではなかろうかと危惧したりする。そんな中で、悪徳企業による食品偽装なんかの問題も起きたりする。


ビジネスにおける「買い物」も、同じような懸念を持っている。
特に、「システムの発注」ということに関してだ。

長年、システムの開発などの畑にいると、時々そうした現場に出くわすことがある。

システム開発における問題の多くが、突き詰めると、買い物をする側が、どういうものが欲しいのか、実はよく分かっていないということがあるのだ。

と同時に、どういうものが欲しいのか聞き出せていない、「プロ」としての受注側の問題もある。

システム導入は、多くの場合、自社の既存業務を効率化・合理化するために導入することが多い。その際、既存業務が、実際にはどのような内容で、どういうところに課題があり、どうしなければならないのか、というようなことを明確にしなければならない。

そうした、根本的な部分を蔑にして、「見栄え」「見た目」といった「上っ面」部分にばかりに、時間や労力をかけて、実際に基盤となる部分をおろそかにしてしまうことが多い。

理由は簡単で、「良く分からないから、任せる」と。。

建物を例にするとわかりやすい。

建物は、土地があり、土台や骨組みの基礎があり、間取りが作られ、最後に外装・内装・インテリアと決定していく。それぞれ、ステップがある。

住居用なのか商用なのか、そうした目的を明確にしたうえで、それに合致した土地選定に続く。

そして、全体像を設計し、構造設計から開始し、基礎から構築していく。建物の耐震などは、まさにこの基礎構造に左右される。住宅を購入する際に、こうした基礎構造もしっかりとチェックする必要がある。複雑で専門的な構造設計は、避けては通れない。

話をシステムに戻そう。

システムの発注の際にも、まず、どのような目的かを明確にしなければならない。ここから、よくぶれることが多々あるのだ。

「どのような目的があり、それをどうしたいか」という明確な「ビジョン」、「方向性」、「考え」があれば、システムの知識を持たずとも、きちんとしたシステム会社であれば、大抵、プロとしての解決策をきちんと明示するはずである。

システム開発プロジェクトを、円滑に発注し完了させるためにも、こうした「発注側のビジョン」と、それに対する解決策に対する厳しい「目利き」する目も必要だ。


スーパーや量販店、ディスカウントストアといった、世の中の値引き合戦が激しくなるここ数カ月。
価格ばかりに目を向けるのではなく、自分がその商品を買わなければならない理由を明確にしたうえで、その商品の「質」も、きちんと「自身の目で測れる」物差しを持つべきだと、つくづく思う今日この頃である。

2009年11月23日月曜日

本当に、「ワーキンググループ」になっているのだろうか?!

明日から、政府による事業仕分けの後半戦が始まる。どうなることやら。。

事業仕分けの雰囲気は、インターネットでも中継され、その様子が見ることができる。

行政刷新会議 ワーキンググループライブ中継サイト

テレビ報道は、時間の制約上、記事になりやすいもの、インパクトのあるものなどの編集されたものになってしまうので、じっくり確認したいのならば、こうしたインターネットが非常に国民にとってはありがたい。


ところが、今回のこの事業仕分け、無駄な予算を削減することが目的であり、財務省の予め作られたシナリオが、なんとなく見え隠れしたりと感じてしまう。


というのも、仕訳対象の内容や結果は別として、このワーキンググループの様子を見ていると、まともに「議論」が成り立っているのが、なかなか見受けられない。

「議論」というよりも「尋問」。
やはり、日本人は、「議論」が下手なのか。

そもそも、議論する内容に対して、時間的制限があり、ある意味仕方がないかもしれない。

しかし、時間が無いのは周知の事実。
その割には、「議論」という視点での事前準備が、「仕分けられる側」のほうが非常に甘いように見受けられたのは、私だけだろうか。

恐らく、「お役所」的な視点での事前準備は万端なのだろう。
しかし、「議論」として、その「お題目(=ゴール)」に対しての事前準備が非常に手薄なのではないだろうか。


事前準備が大切なのは、ビジネスにおける会議などでも同じだ。

会議を行うに際して、事前準備は議事進行において非常に重要だ。特に、お互いに立場が異なり、利害関係が相反する際の「交渉会議」などでは、尚更だ。

議題となる内容に関する細かい事項、事実関係、原因や結果、メリット、デメリット、優先度や重要度、合意目標のレベル分けなど、様々なことを想定しておかなければならない。

それには、議論のスタート地点とゴール地点のプロセスを、予めいくつかシミュレーションできる思考力が必要だ。

結果ばかり見る視点でいると、こうしたプロセスの部分を見落としがちになる。


そうもあって、今回の事業仕分けの様子を見ていると、結論ありきの議論の進め方が、プロセス重視の情報の目利きの私にとって、少し違和感を感じたものだ。


さて、明日からの後半戦はどうなることやら。
まぁ、私としては、経済対策のほうが、より気になるところではあるのだが。。。

2009年11月22日日曜日

ゴミ屋敷とオレオレ詐欺に共通するもの。。。

昨晩、ゴミ屋敷問題がテレビで取り上げられていた。

「ゴミ屋敷」という言葉を聞いて、一部の特殊な人の家のイメージをしていたが、どうやら、ごく普通の人の周りでも存在しているらしい。しかも、ごく普通のマンションなどにも。。。


テレビでは、「ゴミ処理屋」なるビジネスも紹介していたが、その顧客リストには、20代や30代の若い世代の顧客も名を連ねているのには驚いた。職業も、一部上場企業やIT関連、看護師など様々。

大量消費時代、モノ余りの時代を象徴しているのか。

このゴミ処理屋の依頼をした人のインタビューでは、「仕事で疲れて無気力」「パソコンの周りだけ場所があれば十分」「誰も家に来ないから良いかな」といったコメントが。

一方、町のボランティアで、こうした「ゴミ屋敷」を減らす取り組みをしている事例も紹介していた。
大阪豊中市の事例。
行政が強制撤去するという良くある施策ではなく、町のボランティアが中心となり、本人が主体となり、近隣とのコミュニケーションを図りながら、ゴミを徐々に減らすというのだ。

多くのゴミ屋敷の住人は、親戚はもちろん、近隣とのコミュニケーションもとらず、自身がひきこもることによって、結果としてゴミをため込んでしまうことになっているらしい。共通しているのが独り暮らしであることが、それを顕著にあらわしているかもしれない。


ここで思い出したのが、世間を騒がしている「オレオレ詐欺」。
これも普段から、親子・家族で密にコミュニケーションが取れられているのであれば、こうしたことは起こらないのではと思ったりする。


通信技術が発展する一方、「人」と「人」とのコミュニケーションが希薄になっているのも事実。
ビジネスにおいても、隣の人とのコミュニケーションも、メールやチャットで行う始末。
これでは、そもそも伝えなければならないことまで伝わらない。特に、読解力や文章力が無ければなおさらだ。特に日本語には、そもそも「曖昧さ」というものが存在し、文脈、行間からそれらを掴まなければならないことが多いのだ。

今、コミュニケーションについて、もう一度見つめなおすタイミングなのかもしれない。