2010年5月15日土曜日

今までの騒音も、視点が変われば必要な音に。。。

地球温暖化対策の流れもあり、今年は電気自動車が本格的に普及の兆しを見せだした。
少し前から登場したハイブリッド車に加えて、モーターショー等では中国勢も電気自動車を登場させている。


さて、この電気自動車。従来のガソリン車と比較して走行音が静かである。
そのため、歩行者が車の接近に気付かないという危険性が最近指摘されるようになった。
今週5月10日に、国土交通省が電気自動車やハイブリッド車に電子音を出す対策を搭載させた自動車の体験会を実施した。

静音性対策を講じたハイブリッド車等の体験会について


実際に、目の不自由な方々が、これらの車の走行に関して体験。
体験者の方は、聞き取りにくい、気付き難いとの指摘。

今後、これらの結果に基づき、国側は基準作り、企業側は対策化を進めるようだ。


さて、この実験は、目の不自由な方が対象とされているが、実は健常者であっても、身の回りの多くの情報を聴覚によっても収集している。

以前、このBlogでも紹介した「メラビアンの法則」。

人間の行動が、55%が視覚、38%が聴覚によって行われているというものだ。

私自身、ユニバーサル体験の一環で、高齢者の体験をしたことがある。
これは、身体全体に重りを付け筋力の衰えを、軍手をはめて触感の衰えを、黄色いゴーグルをはめて緑内障の感覚を、そして、耳栓をして聴力の衰えを体験する。

こうした体験を通して、銀行のATMを扱ってみたのだ。

日頃、難なく使用している機会だが、ひとたびこうしたユニバーサル体験を等して接して見ると、非常に難しい機会になる。特に、タッチパネルは押したのか押せていないのかが、操作音が聞きづらいため、全く分からないのである。
どれだけ、日常でこうした機械の操作で聴覚も上手く使われているのかと気付いたものだ。


ITのインターフェースの設計、店舗施設の設計などを考える際、多くの場合が、見た目にフォーカスしがちである。しかし、人間は、第二の情報収集手段である「聴覚」にも非常に頼っているのである。

こうした設計をする際に、「聴覚」がどれだけ関係しているかを考えるには、その器官の使用を一旦止めて、体験してみると非常にわかるものだ。

2010年5月14日金曜日

情報共有で犯罪防止

最近、犯罪防止のために様々なITツールを利用している事例を目にするようになった。
私が住む市でも、犯罪発生情報、火災情報、交通情報などをメールで知らせてくれる。

愛知県では、ひったくり被害を軽減するために、面白い取り組みをしているらしい。

ひったくり、駅周辺でアナウンス速報 被害多発の愛知


地下鉄の乗客に対して駅周辺の事件発生情報を、愛知県警から速報するというもの。

A署管内でひったくりが発生すると、即座に周辺各署経由で周辺の地下鉄各駅に伝えられ、そこでアナウンスされる。

この駅でのアナウンスにより、取り組みを始めてから地下鉄を降りてから直後のひったくり事件は発生していないのだという。


さて、この取り組み。

ビジネスに視点を置き換えても、参考になる取り組みだろう。

組織における情報共有と、適切なタイミングでの情報告知が、そこに存在している人の意識を変化させるのだ。

ある部署で発生した事故や苦情等の失敗情報も、上手く活用すれば同じ過ちを防ぐことが出来る。
逆に、ある部署で成功した事例も、適切に評価し共有出来れば、他部署でも活用でき、それが売上につなげられる。


専門的な表現では、この取り組みは、「知識の遠隔移転」の範疇の考え。

組織の雰囲気や風土、そして制度を工夫することで、現場で蓄積した「情報」「知恵」「ノウハウ」を組織に対して上手く有効活用ができる。

2010年5月13日木曜日

技術伝承に悩む、建設現場。。

今朝のNHKのニュースで、建設現場での仕事の質が低下しているということを報道していた。

若い世代に技やノウハウをきちんと伝えきる前に、年齢層の高い人材がどんどん減ることで、このような現象を生み出しているのだと。
更に、下請けなどに業務を委託することで、更に自社にそうした技やノウハウが蓄積しないのだとか。

このニュース。
ただ単に建設現場における現象だけでないように思える。

日本社会全体を見ても、団塊の世代が一気に定年を迎え、昨今の不景気による大量リストラなどにより、同様な事態を招いているのではなかろうか。

終身雇用のスタイルが廃れ、人材の流動化が過去に比べて激しくなった。
しかし、一方で、こうした無形の資産をどう管理するかということには、余り目を向けられていない。

日本企業がかつての元気を無くしているのも、このような側面に一部は起因しているのではなかろうか。


こうした社内のナレッジマネジメントについての理論は、一橋大学名誉教授の野中郁次郎先生によるSECIモデルという概念が有名であり、世界的にも広まっている。

しかし、いざ、企業でナレッジマネジメントを実践という視点でみると、欧米諸国に比べて非常に遅れているし、なかなか定着しないようだ。

ナレッジマネジメント=システムの導入というイメージをもたれる場合があるが、そうではない。これは、システムベンダーが植えつけた間違った認識である。

ナレッジマネジメントは、社内に蓄積する情報に付随するノウハウ、技術知識などを可視化させ、明文化させ、会社全体で共有化し、使える化するマネジメント手法だ。

ナレッジマネジメントが、定着しない理由として、上記のシステム導入との勘違いもそもそも論ではあるが、これ以外にも、曖昧さを美徳する国民性の問題。記録化・明文化を軽視する商習慣の問題。国民性同様に曖昧な表現の多い日本語そのものの問題。企業における評価制度、無形資産の軽視の問題。こうした多くの側面が、これを阻害している。


しかし、時代は変わり、人材が流動化するのが当たり前の時代に。

リーマンショック以降、未曾有の不景気を迎えたなかでも、元気のよい企業はある。
それらの企業に共通するのは、理念の共有、知恵の共有、マインドの共有などを、経営層から一般社員、パートアルバイトまで、組織横断的に積極的に取り組んでいる。

元気が良い理由は、これだけでは勿論ないが、大変な時代の中で、社員自身がモチベーション高くいられるのは、こうした取り組みも重要な施策の一つだ。


これからの時代は、目に見えない無形の資産を、如何に可視化しつつ、それを組織全体で活かすことができるかが問われる時代にもなっているのだろう。

2010年5月12日水曜日

時代のキーワードは、「ダイバーシティ」!?

先日イギリスで行われた総選挙、結果、13年ぶりに政権交代が行われた。
今までの労働党に変わり、保守党のキャメロン党首による政権が誕生。

今回の総選挙の結果、過半数を獲得した政党が無く異例の状態に。
結果として、保守党は自由民主党と連立を組むことに。


さて、日本のこれまでの政治は、イギリスをモデルにしてきたと言われている。
2大政党制というのも、これまでのイギリスの政治をイメージしてのことである。

しかし、今回、第三政党の自由民主党が躍進し、今回のような結果に。
二大政党政治の終焉とも、報道されている。

ところで、我々日本も新党の立ち上げラッシュ。一通りの顔ぶれが揃った状態になった。
連立政権というスタイルは、過去の日本でも既に経験している。昨年の日本の政治のトレンドは、「二大政党政治を目指す」という論調が多かったが、私個人としては、これからは連立政権にならざるを得ない時代になっているのではないかとも思ったりする。

社会が成熟し、人々の考えも多様化しているのだ。

社会全体が成長している時代に、大きなイデオロギーを掲げ、二つの相反するものがぶつかり合うという構造は分かりやすいものだったかもしれない。

しかし、社会が成熟し、豊かな生活が送られるようになると、人の考え方というものも多様化してくる。ダイバーシティ化だ。

ビジネスにおいても、ベンチャーで立ち上げたばかりの会社と、長年経過した大企業の社風では大きく異なる。

自ずと求められるリーダー像というものも異なる。

多様な価値観が混在する組織において、リーダーが求められるのは、明確なビジョンを掲げられた強いリーダーシップはもちろん、組織内における調整能力というもの必要だと思う。ある意味、それはバランス感覚なのかもしれない。


日本も、少しばかり景気の回復傾向がようやく見られるようになった。

政治も勿論、ビジネスにおいても、時代にあった組織の新陳代謝が必要なのかもしれない。

2010年5月11日火曜日

観光スポット、築地の「マグロの競り」再開

昨日、東京の築地市場における冷凍マグロ卸売場の競りの見学が、1カ月ぶりに再開された。
この築地市場のマグロ卸売場の競りは、人気の観光スポットになっており、特に外国人観光客に人気なのだという。

この競りの見学、先月4月8日から、外国人観光客らの増加で業務に支障が出るとして、中止されていた。

外国人観光客の観光スポットとして、海外のガイドブックに記載されているらしい。


さて、今回の再開を機に、いくつかのルールが設けられたようだ。その内容は、このようなもの。。

  • 見学者は毎日先着140人に制限
  • 見学者は見学許可証代わりに指定の黄色もしくは緑色のベストの着用
  • 競り場には70人ずつ入場
  • 見学場所は指定の場所にて見学
  • 競り期間中の写真撮影はフラッシュ禁止

当日は、事前に各大使館にもアナウンスをしていたらしく、大きな混乱は無かったらしい。

この外国人観光客の築地市場の見学の人気。自国にも市場はあるはずなのだが、どうやら冷凍の大きなマグロが珍しく来訪しているらしい。


今回、見学者に対するルール作りを行ったが、本来の業務を安全に遂行するためには必要なことであると思う。そもそも、市場は観光スポットでは無く、都民や首都圏の台所である。食の安全、安心は第一に守られなければならない。

見学者に対して、この市場の役割、そして見学者に対するルールの意味を様々な方法できちんと事前に伝え、周知し、気持ちよく日本文化に触れてもらいたいものだ。

それでこそ、円滑なオペレーションが実行できるのだと思う。

2010年5月10日月曜日

「iPad」端末、予約開始に思うこと。。

今日から、米国アップル社の多機能端末「iPad」の予約が開始された。
当初は4月の販売開始であったが、需要増により約1カ月の延期。
待望の予約スタートとなった。


ところで、こうしたiPadの発売を機に、「電子出版の台頭による既存出版界への影響」というテーマでのメディアの報道が目立ってきた。


現在の日本の電子書籍市場は、携帯コンテンツが主流。売上規模は約400億で、コミックが主流の日本独特の市場を形成している。

一方のアメリカは、文芸書、学術書等が主流だ。
今年の年始の本Blogでも触れたが、Amazonのキンドル初め、各種のデバイスが既に先行して普及し始めている。

実は、日本の出版界は独自の制度が存在している。
それは、「再販取次制度」というもの。

出版社が決めた販売価格での販売を確保し、取次会社が営業、仕入れ、物流管理を行うという制度だ。この制度自身も、そろそろ検討しなければならない時期なのかもしれない。


今回の「iPad」で取り扱われる電子書籍類は、この制度の枠外になる。
そのため、新たなビジネスの誕生もあるのかもしれない。

さて、この「iPad」の発売で、注目されているのが電子書籍ばかりに目が向けられているが、私個人としては、電子書籍はある側面の一つとしてしか考えていない。


電子書籍以外にも、様々な利用用途が考えられるからだ。

冒頭でも記載したが、これはあくまでも「多機能端末」なのである。

情報の閲覧はもちろん、インタラクティヴな情報コミュニケーション、新しい機能性を備えたアプリケーション、様々な機能として利用できるのである。


ビジネスにおいても、ワークスタイルを変える使い方もあると私は思っている。
こうしたデバイスを使って、新しい発想、イノベーションにつなげたいものだ。

2010年5月9日日曜日

政策を見る「目」を鍛えるために。。

今週振り返って印象に残ったのは、やはり普天間基地移転問題のニュース。


普天間基地移設問題は、実は昨年の衆議院議員総選挙の民主党のマニフェストには具体的には記述されていない(それまでの選挙のマニフェストには記載されていたようだが…)。

ところで、この「マニフェスト」に注目してみたいと思う。

そもそも、マニフェスト(manifesto)とは宣言、声明書と言う意味を持つ。
イギリスで、19世紀から選挙公約として使われてきているらしい。

一方、日本といえば、2003年の衆議院議員総選挙以降、本格的に使われるようになった。歴史的にも、日本ではまだまだ浅い。
そもそも、「マニフェスト」という言葉が外来語であり、「選挙公約」なのか「政権公約」なのかという議論もあるようだ。

一方、海の向こうのアメリカでは、マニフェストベースでの選挙は行われていない。
アメリカ国民は、各党の政策よりも、候補者を重視した選挙をするからなのだとか。候補者がどのような人物で、何をしようとしているのかというところを重視しているのだ。

マニフェストベースのイギリスの選挙は、アメリカとは対照的に候補者の名前は売り込まないのだとか。そういえば、先日のイギリスの選挙結果報道を見ていても、それが伺える。

こう見て見ると、日本の選挙はどうやらアメリカ的な候補者を軸とした選挙になっているのではなかろうか。。そんな議論も散見する。


ところで、ビジネスにおけるマニフェストは、「理念」+「事業計画」というところだろう。企業における「事業計画」は、夢物語ではいけない。きちんと実行できる内容でなければならない。そのためには、数々の議論を重ね、現状の課題を分析し、適切な将来的仮説のもとに、計画に落とさなければならない。そして、その計画は、会社全体で共有し運用し、PDCAをまわして、初めてその意味がある。


話をマニフェストにもどすと、日本ではまだまだ歴史も浅い。

昨秋の選挙でも、どれほどの有権者がきちんと隅から隅までマニフェストを理解して投票したかも疑問だ。さらに、メディアも各党のマニフェストについて公平に、かつその内容の奥深くまでを伝えられているのかも疑問だ。


有権者自身が、きちんと各党、そして各候補の掲げる内容そのものをきちんと見極める「目」というものを、もっと養わなければならないのではないだろうかと、つくづく思う。