2010年4月12日月曜日

直接見えない「モノづくりのこだわり」に対する、正当な評価とは。。。

今日の仕事の打ち合わせで、日米のモノづくりの話題になった。

話の発端は、WEBサイト運営で利用するオープンソース系のCMS(コンテンツマネジメントシステム)の開発におけるエピソード。

そのオープンソース系CMSは、元々米国で開発されたものがベースとなっており、それを日本人開発チームが、日本語版としてサポートしているもの。


私自身、オープンソース系のソフトを過去にも使用したことがあるが、実際にはユーザー視点で非常に使い辛いものもたまにある。その使い辛さというのは、機能自身は便利なものなのだが、ユーザーインターフェース的な部分に問題があるというもの。

今日の話題もそうした視点であったのだが、日本人開発チームは非常にそうした視点を重視しているのに対し、米国側は非常にその辺を軽視しているというもの。

日本人開発チームは、ボタンの並び、プルダウンの細かい文言、説明文章についても、非常に気を使うのだそうだ。一方の米国は、そうした所は、「あくまでも、オープンソースでありユーザー側で勉強しろ」というスタンスなのだそうだ。


話を聞いていて、日本人とアメリカ人のモノ作りの姿勢の違いなのかと、私は勝手に解釈していたが、恐らくこれは、ソフトウェア開発だけの話ではなく、その他の製品からサービスに至るまで、多方面で共通した話ではないかと思う。


例えば、車。
日本車とアメリカ車では、ボンネットのつなぎ目の間隔等の空間などは歴然としたものがある。日本車は、びしっと揃えられているのに対して、アメリカ車は、豪快な作りになっている。また、人には見えず決して触れることの無い、ボンネットの裏側まで丁寧に磨きあげるという品質に拘る日本メーカーの話は、有名な話だ。

また、バスのアナウンス。
最近では、アメリカでも行われるようになったが、バスの停留所案内放送というものは、かつてのアメリカの路線バスでは行われていなかった。乗客自身が、外の風景を見て、タイミングを見計らって降車ボタンを押すという具合だった(実際には紐を引っ張るのだが)。


日本は、ある意味、至れり尽くせりなのかもしれない。
そうした、中々目に見えないサービスの恩恵を、日本人は当たり前のように享受してきた。そういう意味で、日本人は、世界一目が肥えているのかもしれない。

実は、その「至れり尽くせり」が実は、自らの首を絞めている時代になってきているのかもしれない。

原価はとことん効率化し、企業努力で下げてきた。
最後に、この「至れり尽くせり」を実行してきた、「ヒト」による「見えない価値」の継続できるかという壁に、ぶつかっているのかもしれない。


物を作っている側も、こうした「見えない価値」の提供について、企業努力として頑張っている会社があるのも事実。

そうした「価値」に対して「正当な対価」を払い、評価することも、一方では必要なのではないかと私は思う。