2010年8月25日水曜日

広告表現もガラパゴス化しているのか。。。

今日も、昨日に続いてタイ旅行ネタで。


今回のタイへの訪問は、私にとって初めて。

十数年前にシンガポールやマレーシア、インドネシアを訪れたことがあったが、当時の周辺地域のイメージが強く、今回、結構カルチャーショックを受けた。

特に印象に残ったのは、各所にあるデジタルサイネージ。

街の交通機関は、古くからあるバスとタクシーに加え、最近では地下鉄と高架鉄道の整備が発達している。

その地下鉄と高架鉄道のホームと車内には、各所にモニターが設置され動画の広告が流れているのだ。
更に、日本との大きな違いは、「音声」が伴っていること。「音声」があるだけで、随分騒がしくなるが、伝達出来る情報もその分増える。

車内も、日本のような「ごちゃごちゃした吊り広告」はなく、壁面広告のみ。更に、全車両1スポンサーであるため、何の広告かはひと目でわかる。
更にラッピング広告とも連動しているのだ。ラッピング広告も、日本のような「ちまちましたステッカー」的なものではなく、欧米で良く見受けられる窓も含めて車両全体を覆うラッピングだ。車両全体を覆うため、大胆なクリエイティヴ表現も出来、そして、必要最小限の情報量にシェイプアップされているので分かりやすい。

スポンサーの中には、三菱電機やダイキン、ヤクルトやグリコといった日本企業も名を連ねていた。

こうしたクリエイティヴを目にした率直な感想としては、何故、同じ日系スポンサーなのに、日本の広告クリエイティヴとこうも異なるのかと思ったりしたものだ。

いつも海外に訪れた際に思うのが、日本の広告は、「アドバタイジング(宣伝)」と「セールスプロモーション(販促)」が明確に区分出来ないクリエイティヴが多いことに気付く。

「アドバタイジング」と「プロモーション」は、そもそも異なる。
昨今では、「アドバタイジング」の費用対効果に対する不信感もあるのも事実。
個人的には、今までの交通広告などの費用対効果がそもそも正しかったのかというのも言いたいところだが、クリエイティヴ自身の「質」にも、私は懐疑的だ。

その「質」とは、本当に伝えたいことを絞り込み伝えられていたのかということだ。


多くの交通広告は、「知ってもらいたい」ことと、「売りたい」ことが同等に扱われてしまっているのだ。

「売りたい」意識が強く働き、あれもこれもとクリエイティヴに対して情報を詰め込んでしまうのだろう。また、一方で、法律による「変な表現の縛り」というものもある。
車内の広告の中には、誰も読めないような文字の大きさの注意事項など、多く見受けられる。個人的には、無意味なことをしているなとつくづく思うのだ。


情報をきちんと伝える際には、必要な情報のみにシェイプアップすることも大事である。

こうした日本の広告クリエイティヴに携わる企業側も広告代理店も、そして制作に携わるクリエーター自身も、原点に立ち返って、誰に対して何を伝えたいのか、目的は何なのかを、シンプルに考え直すべきではないだろうか。